cherry blossom as culture
春の風物詩であったお花見が軒並み自粛となる中で、東京カレンダー5月号の桜特集が、すごく印象深かったので、日本の文化となっている桜についてちょっと考えてみました。
【桜×劇作家(本谷由希子)】
- 美しくはかないものの象徴
- 芸術作品になる一方で生活に近い親しみやすさ
- 花見の必需品であるブルーシートとピンク色に歪んで見てしまう桜の違和感
- 世の中に存在する滑稽な二面性
(ダイオキシン処理場の白い煙突と満開の桜と青空) - 散って終わりがあることの付加価値
- 桜が咲いて散るまでは、誰もが同じ感覚を共有できるもの
- シュールとリアルの境界に咲く花
- 花を切ることは、人が生まれた瞬間にへその緒を切られることと同じ。つながりを断ち切ることで、いつか必ず死ぬという一直線の過酷な宿命を生きる人間の姿が映るもの
- 花はいけたら人になる。花をいけることは言葉をいけること。”言の葉”という見えない華を人の心に生けていく仕事
- Jポップの歴史と、その確立は桜ソングにあるといっても過言ではない
- 散り行くものから、花開くものへとかえていったアイドルソングとしての歌謡曲。多くのアイドルは桜ソングを歌い、アイドルが歌うからこそ、愛らしいものとなるかもしれないが、そもそも桜は華やかなもの。華やかだからこそ切なく、切ないからこそ輝かしいもの。そこにはアイドルという存在がハマる
- 少女と桜と卒業ソングの親和性を作り出した秋元康の存在
- 90年代、マイナーでサブカルチャーだったバンド音楽、ヒップポップ、ソウルがメインストリームとなるなかで、桜というモチーフが果たした役割の大きさ
【桜×落語(柳家花緑)】
- 「頭山」という傑作。あらすじは、ケチな男がサクランボを種ごとを食べてしまうと、頭上から芽が出て、やがてシダレ桜の大木に成長し、その様子が綺麗だというので、大勢の人が男の頭上にのぼり、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ、、、男が木を引っこ抜くと大きな穴が残る。底に雨水がたまり、今度は池ができる。魚が釣れるというので、また頭上に人が集まり、船遊びや花火まで始める始末。とうとう気の狂った男は、自分の頭上にできた池に身投げをして死んでしまうー。
- 不条理な状況に直面した男の悲哀を淡い幻想に包み込んだ傑作
- 物事は<陰>と<陽>で成り立っている。樹木も<陰木>と<陽木>があり、桜の木は実は<陰木>なんだと。花見で陽気にさわぐからバランスがとれていると。
- 『頭山』には桜の持つ陰陽が端的に現れている、その桜の二面性は、日本人の心証に深く根ざした感覚でもある
- 日本固有の桜である山桜とソメイヨシノとの比較
- ソメイヨシノは人工交配で生まれ、同種の種子だけで子孫を増やす能力を持たない
- 日本中に溢れているソメイヨシノはすべて人の手による接ぎ木で増やされたもの
- ソメイヨシノがパッと咲いて、パッと散るというのが、かつての軍国主義のひとつのメタファー
- 本居宣長が歌の中で日本のあり方を桜に例えたとき、それは山桜のこと。山桜というのはじっくり咲くというもので、手弱女ぶり、つまり女性の強さであり、だから一度咲いたらずっとそこで微笑んで、長い時間みんなを和ませてくれる
- 今まで桜に対して抱いていた刹那的な美意識みたいなものは、ある時代に作られた流行でしかないとの気づき
- 大量生産品のソメイヨシノはどれも同じ個性だから、みんな同じ時期に咲く。それもちょっと変というか、近代っぽい。ただソメイヨシノを悪く言うつもりはなく、あれはあれで、ひとつのポピュラーミュージックのような面白さがありますからねと。
- かつて桜は、寺や屋敷の鬼門の方角に植えられるものだった。つまり鬼が来るところに桜を植えておくと、その美しさに鬼がたじろぐんですよ。きれいなものというのは正しいものだから、きれいな花が邪気を払ってくれると。そういう美しいものが持っている強さの象徴が日本では桜だったんです
- 日本人である以上、いつでも桜の味方でいたい。桜を敵に回すということは、鬼を払うほど美しいものを踏みにじるということになるわけだから、わざわざそんな荒々しい方にいるよりは、日本に生まれたからには、やっぱり桜サイドに立ちたい。いろんな桜の歌を作ってる人たちだって、あれはみんな、桜サイドに立ちたい人ですよ
なるほど、今まで春爛漫となり、ウキウキと心躍ることへの象徴と思っていた桜(ソメイヨシノ)に対する見方が、ちょっと変わったかもしれません。最近、茶道を習い始めてますが、実は、掛け軸になっている禅語の中でも、”桜”はあまり出てこないようです。確かに、一斉に、一糸乱れずに咲く様子が、個人のさまざまな「生涯」や「家風」を重んずる禅には似合わないということではないだろうかと。
とはいいながらも個人的には、たとえ人工的なソメイヨシノであり、陰陽を演出する桜であっても、未曾有の大震災にみまわれた東北地方にも一日も早く桜前線が到達し、復興にむけて努力している被災者の方へ、少しでも、ひとときの安らぎと喜びを与えてほしいものだと切に願います。長くなりましたがこのあたりで日本文化としての桜に関するブログを締めくくりたいと思います。