Design Intangible World

ZEROBILLBANK - Startup Journey in Israel

uniqueness = open × mixture (or -> and)

何気なく立ち寄った六本木の本屋さんにて、石倉洋子著『グローバルキャリア〜ユニークな自分の見つけ方〜』という本が妙に気になり衝動買い。そして一気に読了。おもしろかった。情報技術の革新が進み、国境、業界、組織という「場」の概念が緩やかになり、個人への力のシフトが起こる変化が常な世の中では、自分を「オープン化」しながら世界に視野を広げ、「ORをANDにする」という二者択一のトレードオフではなく多様な「組み合わせ」を発想しながら、自分なりの「ユニークさ」を打ち出していくことが鍵となるという。

明確な目標がない中でも、その都度、自分の置かれた環境の中から、時は過ぎ去ると二度と帰ってこないという「時間への感度」高く、前向きに取り組んできた経験豊かな著者の人生観に惹かれました。

印象的なこと、刺激を受けることがあると「やろう!」という気になるのですが、行動に移す人は意外と少なく、時間の経過とともに、その時に感じた意欲が失われてしまうことが多いのもこれまた現実。時を置かずにすぐやる、何か行動をとりながら時間への感度を高め、成長する機会を増やしていこうと考えさせられた週末でした。

それともう一つ。継続は力なりとしながらも「Exit Plan」を持つことの重要性を考えさせられました。継続 vs 挫折の対立軸の中で、期間を決めて目標を定め、それが達成できない場合は潔く撤退することを前もって決めておくことの重要性。その裏返しとして、なんとしてもやり遂げるというモチベーションの維持。

今年末までに達成すべき明確なGOALを決めなければ!






住処について考えた週末

日本の将来、人口が減少していくことを考えると、今のままでは住居は自然と飽和していくことになり、その価値は下がっていくことになるが、この流れはきっと自然なのだろう。

さて、そんな環境下、僕らはどのような住処を考えればよいのだろうか。今週末、中学時代から親しくしている友人から突然の連絡がありランチオンしてきましたが、彼は60歳になるまで賃貸にすると腹に決めているようだ。2,000万円以内の住宅ローンであれば即購入、そうでなければ賃貸にするという考えだ。

興味深かったのは、引退した後に、自分達が気に入った街に、気に入った家を建てるという。今年、35歳になる我々が住宅ローンを35年で組んだとしても、70歳まで払い続けることになり、そこにとどまらなくちゃいけないことや自然災害のリスクがな〜、、なんていうことを言っていた。

確かに一理ある考え方だ。引退時まで毎月10万円を貯蓄していき、仮に年利3%で運用が回ると7,200万円(ゼロ金利だとすると120万円×35年=4,200万円)+退職金が2,000万円ぐらいあったとしたら、十分に楽しめるんじゃないかと。彼はFPを取得し、そして先週レーシックの手術を行ったようで、明るい未来を見据えているようにも感じた。

で、今の自分にはどんな住処が適しているんだろうかと?!
(こんなこと考えてる前に買っちゃえばいいんですけどね、、、)

先日とあるきっかけで、東京R不動産を立ち上げた馬場正尊さんの『新しい郊外の家』を読んだ。都心に仕事用の賃貸住宅を借りながら、房総の土地に自分の思い通りの別荘を建てようという革新的な取り組みであり、著者の馬場さんは房総半島にサーファーズパラダイスのような素晴しい住居を構えられたそうだ。



この本を読んで思い立ったのは、実家のそばに、以下イメージのようなエアロハウスによる別荘を建ててみようかということ。普段は東京で暮らし、週末は実家の近くにある別荘での暮らしだ。地元メンバーでのテニスや、トライアスロン基地のようなものにするのもよし、友人を呼んでの週末パーティーとかをやるのも一案だろう。このような場合はやっぱり都心にある家は賃貸ほうがいいんじゃないかと思考中。






旅心

今日は茶道の師匠より、掛け軸をいただいてしまいました。


茶道の世界では有名な大徳寺黄梅院太玄(小林太玄)という住職に書いていただいた書のようで、今の私が毎日眺めるにはちょうどよいということで、早速、飾ってみました。

高い目標を持って一日一日を大切に、そして旅人のような冒険心とワクワクした前向きな気持ちも忘れずに活動していきたいと思います。

epithalamium

今月は結婚式ラッシュ。

ちょっとした所用で久しぶりに実家に帰ってきてたら、突然、両親から手渡された『祝婚歌』。当時の芳名帳からこんなのが出てきたのよ〜と。友人が受付に預けてくれていたようです。当時の気持ちを思い出しながらせっかくの出会いにブログアップです!!


『祝婚歌』 吉野 弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい


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cherry blossom as culture

春の風物詩であったお花見が軒並み自粛となる中で、東京カレンダー5月号の桜特集が、すごく印象深かったので、日本の文化となっている桜についてちょっと考えてみました。

【桜×劇作家(本谷由希子)】
  • 美しくはかないものの象徴
  • 芸術作品になる一方で生活に近い親しみやすさ
  • 花見の必需品であるブルーシートとピンク色に歪んで見てしまう桜の違和感
  • 世の中に存在する滑稽な二面性
    (ダイオキシン処理場の白い煙突と満開の桜と青空)
  • 散って終わりがあることの付加価値
  • 桜が咲いて散るまでは、誰もが同じ感覚を共有できるもの
  • シュールとリアルの境界に咲く花

【桜×華道(前野博紀)】
  • 花を切ることは、人が生まれた瞬間にへその緒を切られることと同じ。つながりを断ち切ることで、いつか必ず死ぬという一直線の過酷な宿命を生きる人間の姿が映るもの
  • 花はいけたら人になる。花をいけることは言葉をいけること。”言の葉”という見えない華を人の心に生けていく仕事

【桜×音楽】
  • Jポップの歴史と、その確立は桜ソングにあるといっても過言ではない
  • 散り行くものから、花開くものへとかえていったアイドルソングとしての歌謡曲。多くのアイドルは桜ソングを歌い、アイドルが歌うからこそ、愛らしいものとなるかもしれないが、そもそも桜は華やかなもの。華やかだからこそ切なく、切ないからこそ輝かしいもの。そこにはアイドルという存在がハマる
  • 少女と桜と卒業ソングの親和性を作り出した秋元康の存在
  • 90年代、マイナーでサブカルチャーだったバンド音楽、ヒップポップ、ソウルがメインストリームとなるなかで、桜というモチーフが果たした役割の大きさ

【桜×落語(柳家花緑)】
  • 「頭山」という傑作。あらすじは、ケチな男がサクランボを種ごとを食べてしまうと、頭上から芽が出て、やがてシダレ桜の大木に成長し、その様子が綺麗だというので、大勢の人が男の頭上にのぼり、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ、、、男が木を引っこ抜くと大きな穴が残る。底に雨水がたまり、今度は池ができる。魚が釣れるというので、また頭上に人が集まり、船遊びや花火まで始める始末。とうとう気の狂った男は、自分の頭上にできた池に身投げをして死んでしまうー。
  • 不条理な状況に直面した男の悲哀を淡い幻想に包み込んだ傑作
  • 物事は<陰>と<陽>で成り立っている。樹木も<陰木>と<陽木>があり、桜の木は実は<陰木>なんだと。花見で陽気にさわぐからバランスがとれていると。
  • 『頭山』には桜の持つ陰陽が端的に現れている、その桜の二面性は、日本人の心証に深く根ざした感覚でもある

【桜×糸井重里】
  • 日本固有の桜である山桜とソメイヨシノとの比較
  • ソメイヨシノは人工交配で生まれ、同種の種子だけで子孫を増やす能力を持たない
  • 日本中に溢れているソメイヨシノはすべて人の手による接ぎ木で増やされたもの
  • ソメイヨシノがパッと咲いて、パッと散るというのが、かつての軍国主義のひとつのメタファー
  • 本居宣長が歌の中で日本のあり方を桜に例えたとき、それは山桜のこと。山桜というのはじっくり咲くというもので、手弱女ぶり、つまり女性の強さであり、だから一度咲いたらずっとそこで微笑んで、長い時間みんなを和ませてくれる
  • 今まで桜に対して抱いていた刹那的な美意識みたいなものは、ある時代に作られた流行でしかないとの気づき
  • 大量生産品のソメイヨシノはどれも同じ個性だから、みんな同じ時期に咲く。それもちょっと変というか、近代っぽい。ただソメイヨシノを悪く言うつもりはなく、あれはあれで、ひとつのポピュラーミュージックのような面白さがありますからねと。
  • かつて桜は、寺や屋敷の鬼門の方角に植えられるものだった。つまり鬼が来るところに桜を植えておくと、その美しさに鬼がたじろぐんですよ。きれいなものというのは正しいものだから、きれいな花が邪気を払ってくれると。そういう美しいものが持っている強さの象徴が日本では桜だったんです
  • 日本人である以上、いつでも桜の味方でいたい。桜を敵に回すということは、鬼を払うほど美しいものを踏みにじるということになるわけだから、わざわざそんな荒々しい方にいるよりは、日本に生まれたからには、やっぱり桜サイドに立ちたい。いろんな桜の歌を作ってる人たちだって、あれはみんな、桜サイドに立ちたい人ですよ

なるほど、今まで春爛漫となり、ウキウキと心躍ることへの象徴と思っていた桜(ソメイヨシノ)に対する見方が、ちょっと変わったかもしれません。最近、茶道を習い始めてますが、実は、掛け軸になっている禅語の中でも、”桜”はあまり出てこないようです。確かに、一斉に、一糸乱れずに咲く様子が、個人のさまざまな「生涯」や「家風」を重んずる禅には似合わないということではないだろうかと。

とはいいながらも個人的には、たとえ人工的なソメイヨシノであり、陰陽を演出する桜であっても、未曾有の大震災にみまわれた東北地方にも一日も早く桜前線が到達し、復興にむけて努力している被災者の方へ、少しでも、ひとときの安らぎと喜びを与えてほしいものだと切に願います。長くなりましたがこのあたりで日本文化としての桜に関するブログを締めくくりたいと思います。



Heart-warming message

先月から支援を始めましたチャイルドドクターの宮田代表より、ケニア・ナイロビの子ども達が日本の大震災にむけて、それぞれの思いで作成したメッセージボードが送られてました。

子供たちの笑顔に元気づけられます。
今、私たちにできることを!










The Social Atom

ここ最近、妙にはまっている複雑系を社会物理学として世に広めたマーク・ブキャナン氏の書籍『人は原子、世界は物理法則で動く』を読了。これまた非常におもしろかった。特に社会現象のバックグラウンドに脈々と流れている複雑系の特徴ともいうべき自己組織化とパターン(べき乗則)の原理が如実に現れている具体的な事例を中心に備忘録として記載してみます。

荒れ果てたタイムズスクエアは、なぜ新しく生まれ変わったのか?

この問いに答えるために、以下のような観点から説明しているのは、まったくもって目から鱗の新しい考え方でした。

そもそもブキャナンは、人間の行動特性を

①合理的な計算機ではなく、滑稽なギャンブラーである
②適応性のあるご都合主義者だ

という2つの原則を持つものだと捉えることから始まります。


■適用する原子

<株価は予測できるか?>

市場への参入者が不十分で、実際に使われている戦略を寄せ集めても、すべての戦略をカバーしきれないとする。このときには市場の動きを「予測する」余地がまだ多少残っていて、そのために市場の外部にいる人々は、まだ利用できる戦略を使って当然のように参入しようということになるだろう。

だが新たな参入者が、新たな戦略を実行する事で、予測可能な余地の一部を実質的に消失させていくことになり、市場への参入者が増加しつづければ、ついに予測の余地は完全になくなってしまい、市場はまったく予測不能になる。もちろんこの時点で、もはや利益をだせなくなったために、市場からの退出を決断する人も出てくるだろう。

こうなれば利用できる戦略が市場に生まれるわけで、市場は再び、多少は予測可能な状態に戻る。この論法でいけば、市場は限定的な予測であれば、容易ではないとはいえ不可能ではなく、そのような状態になっているのを検出することはできるという。

ただし上記のような予測がそう簡単にできないのは、社会の原子である人間が、社会と完全に切り離されているわけではなく、二人の間、あるいは集団の中で活動することで、確実に生じてしまう”模倣”という人間の特性に影響されてしまうからだという。


■模倣する原子

<ペンギン的思考と社会のなだれ現象>

ペンギンは、日々一種のジレンマに直面しているという。青く冷たい海面下から餌を獲得する必要があるが、シャチに襲われ非業の死ということも十分にあり得る。そんな中、ペンギンたちは毎日最初に餌を探すときは”待機作戦”をとるわけで、ロシアンルーレットならぬ、シャチアンルーレットに挑戦しているごときだそうだ。

ペンギンたちは、何時間もじっとたっているが、最後に破れかぶれになった何羽かが飛び込み、海が朱に染まればそのままじっとしているし、何事もなければすべてのペンギンが餌を探すために海へ飛び込む(最近の調査からは、事態を進展させよとして、仲間をかなり強く押すペンギンもいることもわかってきているという)

概して人は、自分の生き方を自分で決めているものだと考えてしまうが、本当は上に書いたペンギンたちにそっくりではないだろうか。情報が少ないときは他者を観察して、どんな断片的な情報でも可能な限り集めようとする。評判の高いレストランで食事をしたいし、企業がどんどん進出している地域はやはり気になるし、街中で20人が空を見上げていれば、空を見上げずにはいられないだろう。

ただこの模倣のせいで分別をなくしてしまう事も日常茶飯事で、最近の震災の影響による水、トイレットペーパーなどの買い占めはこの典型的な事例だと思う。そしてこの社会のなだれ現象を原子物理学のアプローチから見れば、ある法則があることに気づくという。

今回のアラブ諸国で発生した暴動を事例として考えた場合、例えば100人の市民がいたとして、各自の暴動に加わる”閾値”が0から99までのいずれかの値だったとしよう。ある人は0、別の人は1、さらに別の人は2というように異なる値になっている。

この場合は、必然的に暴動は大きくなる。閾値が0の過剰分子が暴れだせば、閾値1の人が、つまりだれか一人が暴れているのを見ると、閾値の低い人から五月雨式に引き込まれ、こうして騒ぎはどんどん拡大していき、最後には高い閾値の人までも巻き込まれてしまう。

ここで注意しなければならないのは、これらの閾値がどのような組み合わせになっているかの細部によって、結果的には不相応なほど大きな差が生まれてしまうことがあるという。このケースでは、閾値が1の人をいなくしてしまえば、口火を切った人物がそこらのものを壊しているだけで、二番手になって騒ぎに加わろうとする人が一人もいなければ、連鎖反応は生じない。したがって一人の性格がごくわずかに変わるだけで、集団全体に非常に大きな影響を与える事がある。

社会の”なだれ現象”を原子物理学の目で見れば、伝えようとしている現象が、暴動であろうと、株式市場の暴落や買い占めであろうと、簡単に回避するすべのないことがわかる。つまり正確で詳細な予測がほぼ不可能なのは、それぞれの閾値が異なり、お互いに影響をし合っている以上、どんな些細な事柄でも大きな構図の中に入り込んで、影響を及ぼしてしまうためである。例えば暴動のようなケースでは、群衆のなかにまともな人間が2、3人いるかいないかといった些細な差が、窓ガラスを数枚たたき割られるか、街全体が火に包まれ、地球規模にまで拡散してしまうかの違いになってしまう事もあるという。

ここまでくるとタイムズ・スクエアのたどった経緯が見えてくるような気もするが、スマートフォンを購入する若者や、ブランドの流行を追い求めるような人間の行動特性である”模倣”とは違うレベルの相互作用を、まだまだ検討する必要があるという。

続きの以下3つは、次回ということで!

■協調する原子
■憎しみ合う原子
■金持ちがさらに豊かになる理由(パレート最適となる物理法則)